2021年7月22日から8月21日に実施したアンケートにたくさんのご応募ありがとうございました 応募総数は1031件!! お寄せいただいた素敵なエピソードは一通一通拝読し18名の方のエピソードを特賞として決めさせていただきました。1949 年、福岡の天神・西鉄街にオープンさせた喫茶店から始まって70 年以上にわたり「食」を通じてお客様へ「忘れられない味」や「大切な方と食事をした思い出のひととき」などをお届けできたことを大変嬉しく、誇りに思います。あたたかな言葉の数々を私どもの励みとし、これからもより良いサービスをお届けできるよう努めてまいります。

感謝のメッセージ この度は、弊社風月フーズの「あなたと風月の思い出」にご応募いただき、誠にありがとうございました。さて、この度の「あなたと風月の思い出」と題したお客様へのアンケートは弊社にとって初めての試みでした。お客様の声に耳を傾けるきっかけとなったのは、新型コロナウィルス。人と人を分断する社会が長引く中、街から人は消え、観光も減り、私たちにはお客様の顔が見えづらくなくなりました。「私たちの存在意義はあるのだろうか」「本当に必要とされているのだろうか」不安になる日々を過ごす中、改めてお客様の声に耳を傾ける決意を致しました。約1000通ものお客様からの声を頂戴し、改めて気づかされたのは「人が人を想う気持ちの温かさ」。そしてフードサービスを通して、少なからずお客様の気持ちに寄り添う事が出来たこと、私たちの役割を思い出させていただきました。改めてお客様の気持ちに寄り添い、笑顔をお届けすることをお約束いたします。今後ともご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。 代表取締役社長 福山 剛一郎

結果発表 受賞者の発表と心温まる素敵なエピソードの紹介

風月フーズ賞 M.M様(福岡県)私は、小学校一年生で母を亡くし、父一人娘一人で暮らしていたのだが、父が東京に単身赴任することとなり、5年生から私は叔母のもとでお世話になることとなった。今のようにSNSがない時代のこと、電話で話すことはできても、顔を見られるのは半年に一度ほどだった。東京に帰る父を福岡空港から見送るときは、必ず「レストラン風月」に連れて行ってくれた。「風月」での食事は普段はできない贅沢でもあり、何でも好きなものを頼みなさいと言われ、ワクワクしながらメニューを開く瞬間が大好きだった。仕切りのない広い窓から滑走路に並ぶ飛行機を見るのも好きだった。鰻の膳をほおばる私を、無口な父はいつも黙って見つめていた。私は、少しでもこの時間を長く味わいたくて、ゆっくりゆっくり食べた。油断すると涙が出そうなので、「あの飛行機どこのかな。」などと途切れないよう話を続けながら食べた。今では、福岡空港も建て替わり、あの思い出の「風月」はなくなってしまった。しかし、父と過ごしたあの「風月」の思い出は、今でも胸の中にある。 あなたと風月の絆委員会よりコメント お父様との切なくも、とても素敵なエピソードに胸を熱くいたしました。お父様もお嬢様を残して福岡を離れるお気持ちは、きっと計り知れない寂しさがおありになったと推察いたします。そのような折に、レストラン風月をご利用いただき、お父様との大切な時間を過ごして頂きましたことは、私どもにとって何よりの喜びでございます。これからも、心に残るようなひと時をお客様に過ごして頂けますように、私どもも心を込めて接してまいりたいと思います。

社長賞 M.Y様(埼玉県) 博多にあるガトー風月。幼い頃、ここのガラスケースを見るのが好きだった。当時の小遣いは二百円とあって私に買えるものはない。それでも店員さんは変な顔ひとつせず「ゆっくり見ていって下さいね」と笑った。あれは二年生の時の母の日。どうしても母にガトーショコラを買いたくて小遣いを貯めた。当日は途中の公園でブタの貯金箱を割り、小銭だらけのお金を握りしめて風月に行った。店に着くとガトーショコラはあった。迷うことなく「これ下さい」と言うと店員さんは丁寧に箱に詰めてくれた。あとはお会計だけ。しかし事もあろうにあと十七円足りない。ポケットをあさっても出てくるはずもなく私はうろたえた。「他の商品になさいますか」「いや、だってママはチョコが好きだから」そんな会話をしているうち、自分が情けなくて、悔しくてとうとう泣いてしまった。その時だ。「これで」と後ろからまるっこい手が伸びた。母だった。母は私がひとりで買い物に行くのが心配でこっそりついてきたのだ。サプライズをするはずの母の日なのに逆にサプライズをされてしまうなんて。そのあと一緒に食べたガトーショコラはほろ苦くも、甘い、青春の味となっている。 代表取締役社長 福山剛一郎よりコメント 子が母を想う気持ち、母が子を想う気持ち。たった一つのガトーショコラのお買い物に、こんなにも大切な気持ちが込められている事、教えて頂きありがとうございます。「いつか大切な人にケーキをプレゼントしたい」そんな想いをもってショーケースを見つめてくださる将来のお客様を大切におもてなしできるお店であり続けたいと思います。

特賞 A.H様(東京都) 未だ天神コアができる以前、朝、付近を通ると魚臭いバラックの建物(西鉄街?)の隅に、鉄板焼きの店として風月さんがあった幼いころ、月に一度連れて行ってもらうのが楽しみでした。まず着席すると湯呑みに、お茶水替りにスープが出てくるのが印象的な思い出。今天神駅のミスドの上にあったレストラン、その通路を挟んだ向かいにカウンターだけの席の店。清浄野菜を売りにした現在でも通用しそうなメニューと造り。コアのグルメ風月メニュー、レバーサラダに通ずるメニューが今は亡き母共々好物でした。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 風月創業の地である「西鉄街」の創業当時の商店街の様子が、目の前に現れたかのような、不思議な懐かさを感じる事が出来、その時代を知らない現代っ子の社員へ贈りたくなるようなA.H様の昔懐かしの思い出でした。ご投稿ありがとうございました。中々不自由を強いられるご時世ですが、お元気でまた、お立ち寄りください。

K.Y様(福岡県) 私は、この7月25日で79才となる老人ですが、今に思えば60年前の事少し、懐かしく想い出すことに嬉しく、早速アンケートにペンを取っております。高校を卒業して憧れの天神町街に就職し、毎朝路線電車で通勤して帰りの道の事。友人とお給料を(当時は手渡しの茶封筒でした)いただいた日に決まって、”風月によろうか(行こうの博多弁です)”とどちらからともなく、誘いあって心もいそいそとテーブルについてました。当時今の様に、ケーキ屋さんとかもなく何よりおしゃれだと思ったのが、ホットケーキでした。フォークとナイフでいただくのが、私たち娘の心にちょっとしたおしゃれだったのです。結婚するまでは西新に住んでましたが、この年になって姪浜に住居を移しました。姪浜駅構内で貴社に出会えたこと、これもご縁かなと思います。(時々孫のケーキ等を買うこともあります。メッセージもこころよく書いてくださるので嬉しいです。)貴社のご発展をお祈り申します。 あなたと風月の絆委員会よりコメント お給与が手渡しの時は、ついつい贅沢していた時を思い出しました。そのちょっとした贅沢に風月を選んでいただき感謝しています。「ナイフとフォークがおしゃれ」とてもとても共感いたしました。60年前からご支持いただき、感謝の言葉しかありません。ご応募ありがとうございました。

M.T様(福岡県) 昭和41年の春。私は社会人となった。福岡市に本社がある新聞社に勤め始めた。先輩からまず教えられたのが”コーヒータイム”のこと。「いいか、このコーヒーを味わいながらいいアイディアが浮かぶようにならんといかん」確か風月は新天町の入り口あたりにあった。先輩のコーヒーはそこと決まっていた。パイプをくわらせながら、美味しそうにコーヒーを楽しむ姿が今も思い出せる。あの「風月」の小さな店とともに・・・・。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 先輩の一言のシーンが目に浮かびました。アイディアを出すためのツールとして風月のコーヒーと空間を選んでいただいたこと感謝いたします。「心を込めた一杯のコーヒーの精神」でお客様の大切な時間に少しでも役立てたことを誇りに感じています。ご応募ありがとうございました。

N.N様(福岡県) 風と月の文字には子供の頃からとても親しみがあります。「雪うさぎ」年を重ねた今でも大好きです。手見上げでさし上げると「まぁかわいい」と皆様大喜びでした。家族で出かけたレストラン。大人になってはじめて一杯立てのコーヒーを味わったのも西鉄街のカウンターにあるコーナーでした。楽器のようなスタンドチェアーも印象的でした。産後、両親から「一番食べたいものは?」の問いに、すかさず「レバーステーキ」と答え持ち帰りなど無理な要望に答えてくださり、本当にありがとうございました。一生忘れられない味です!!後日、店長さんにお礼のはがきを出しましたところ、朝礼の時にスタッフ皆様にはがきの内容を紹介されたそうです。風月ファンのお客様からありがたいお葉書をいただいたのでということでした。その後、そのことを知り、こちらこそお客様を大切にされる味づくり・店づくり・人づくりをされる企業なのだなぁと思い嬉しくなりました。これからもずっと風月ファンです‼天神ビックバン後には新店がオープンするのでしょうか。楽しみにしています‼お肉のソースも大好きです。お肉にジャーマンポテトにいろいろ使っています。結構ギフトで喜ばれています。必ず、私なりのレシピ、使い方のカードを添えてお渡ししています。100周年を楽しみに待っています。ず~と継続おねがいします。(ツンドラがなくなりがっかりしています)コロナで大変だと思います。皆様くれぐれもご用心なさってくださいね!!(只今、目の治療中でもあり、文字が書きづらく乱筆で申し訳ありません。締め切りの日にちも間違って重ねてお詫びします‼) あなたと風月の絆委員会よりコメント お客様の人生と共に私達も成長してきたんだと感じることが出来るエピソードでした。お客様の「福岡の企業」を愛して下さるお気持ちがとても励みになります。「ふと食べたくなる」と思い出して頂ける料理や空間を提供しお客様と共に成長し続けることの幸せを感じながら今後も期待に応えられるよう発展していきたいと思います。目の治療中の不自由な中、温かいエピソードをお持ちいただきまして本当にありがとうございます。

K.J様(埼玉県) 幼少期を那覇で過ごした。実家は代々続く旅館を経営し、僕はその跡継ぎとして期待された。しかし高校を卒業する頃、どうしても声優になりたくて家を飛び出した。もちろん父は大反対で、母も父の言いなり。「じゃあ旅館はどうするの」と言われ、「じゃあ俺の夢はどうでもいいのか」と盾をついた。母は最後泣き崩れ、父も「勝手にしろ」と背中を向けた。だけど那覇空港についた時、さっきまでヘソを曲げていたはずの父がなぜかいた。「まだ時間があるだろう。ちょっと来い」父はそう言うとグルメ風月に入った。はじめて父と入ったレストラン。僕らはそこでビーフバター焼を食べた。何を話すわけでもなく、ただがむしゃらに食べた。立ち上るけむりに僕らはメガネを曇らせた。二人で顔を見合わせて笑った。「変な顔だな」と言いながら、それでも最後には「親父ありがとう」と言えた。あれから僕は何度もビーフバター焼を食べた。広川サービスエリアで同僚と、天神店で妻と、自宅では娘と見よう見まねで作って食べた。だけど那覇空港で父と食べたビーフバター焼は今も胸に残る。嬉しさや感謝も一緒に。この先どんなに僕が働いて返しても、あの味を越えるものはないだろう。もし父が天国で見ていたら言ってやりたい。あの時はごちそうさま。そして長い間迷惑かけてごめんな。俺、来年沖縄に帰るよ。親父の守ってきた旅館を継ぐために。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 亡きお父様との思い出に感情が揺さぶられて涙がこぼれてしまいました。息子さんを送り出すお父様とお母様のお気持ち。時を経て沖縄にお戻りになる投稿者様のご決断と「ごめんな親父」のお言葉。悲しいような嬉しいような、ご家族の切なさを感じます。私自身の父も既に他界し、また愚息は私と妻の気持ちに反して沖縄を離れ、県外で所帯を構えてしまいました。投稿を拝読しながら投稿者様ご家族のお姿と、私事を重ねてしまい何度も読み返した次第です。ご家族との想いに弊社店舗やビーフバター焼きが少しでもオーバーラップして頂けることは、とても嬉しく有難いことです。ビーフバター焼きをお召し上がりの際には、お父様を想い出していただければ幸いです。ご投稿有難うございました。

K.T様(福岡県) レストラン風月のビーフバター焼きは祖母の味。私の祖母はあまり料理が上手な人ではなかったように思う。祖父母は田舎で小さな酒屋を営んでおり、祖母の家庭料理は酒屋で売れ残った余り物ばかりで、私の記憶に祖母の手料理というものはなかった。だが、少し不器用ながらも私を可愛がってくれた祖母のことを私は昔から大好きで、そんな祖母との思い出の一つに夏の小旅行というものがあった。基本的に仕事ばかりで休みを取らない祖母、その数少ない例外。私が夏休みに入ると、祖母はきまって、福岡市内に住む叔母の家に私を連れて一泊二日の旅行に出るのであった。そんな旅行の楽しみの一つが風月のビーフバター焼きだった。旅行の初日のお昼はいつも風月だった。デパートでおもちゃを買ってもらってご満悦の私。そのお腹を更に幸せにしてくれるのは、決まってビーフバター焼き。祖母が取り分けてくれるお皿から、頬をいっぱいにしていつも食べていたのを思い出す。祖母が亡くなって数年経つが、今でもあの当時のことは鮮明に記憶に残っている。料理が出てくるのを祖母と一緒に待つ時間はとても幸せだった。祖母を思い出す時に出てくるものといえば、風月のビーフバター焼きである。祖母の味というのは少し違うかもしれないが、それでも祖母を思い出させてくれるその味を私が今でも私は大好きだ。これが私の思い出の風月である。 あなたと風月の絆委員会よりコメント ご祖母様との思い出のお時間がそのまま風月のビーフバター焼きと重なっているというお話に、絆委員会メンバー皆感激いたしました。デパートでおもちゃを買ってもらいご満悦の後、幸せな気持ちに更に輪をかけたのがビーフバター焼きという最高にうれしい評価をいただきありがとうございました。大切なお孫さんの夏休みの思い出作りに風月のお店を選んでくださっていたご祖母様にも心より感謝申し上げます。

K.Y様(宮崎県) あなたと風月の絆委員会よりコメント 5年前にお兄ちゃんが味噌汁こぼしていたことを覚えていて、ご自身はこぼさないように食べていたんだけどこぼしてしまった...といった微笑ましい光景が目に浮かびました。かわいいイラストとこの可愛い文面に一気に虜になりました。今度はどんなハプニングやエピソードがK.Y様に待っているのか、楽しみですね。

T.S様(福岡県)結婚して妊娠中に風月でパスタを食べました。出産して風月でパフェを食べました。やっとその子も16才になりました。今の家族でカレーを食べます。家族が増えるたびに、風月さんにお世話になりますね。 あなたと風月の絆委員会よりコメント お客様の人生の節目節目にお立ち寄り頂いていることが心から嬉しくなるエピソードでした。ご家族の成長の記憶の中に寄り添うことができとても光栄です。お客様の日常にとけこみながらも特別な日を彩ることができる料理や空間を提供できるよう努力していきたいと思います。

T.E様(沖縄県) 「今日はどこで寝るんですか?」台風のために搭乗予定の飛行機が欠航になり、途方にくれていた那覇空港で突然声をかけられた。高校卒業後神奈川県にいた私は、石垣島へ帰省途中だった。千葉県から石垣島へ一人旅をするという彼女は、不安そうな顔で私を見つめていた。辺りはすっかり暗くなり、ホテルもほとんどが満室状態で困り果てていた。「友人に連絡して泊めてもらえるか聞くんですけど、よかったら一緒に来ます?」いつもなら初めて会った人にそんな事は言わない私は、自分でも驚いた。電話した友人も、連れがいる話をすると驚いていたが、快く了承してくれた。  その日は泊めてもらい、次の日は一緒に私の故郷の石垣島へ。石垣島を案内しながら2日間一緒に過ごし、彼女は福岡県へ、私は神奈川県へ行くため再び那覇空港まで一緒になった。出発時間までの間、彼女が「お礼にごちそうしたい」と言って連れて行ってくれたのが、那覇空港にある『風月寿司』だった。どれも美味しく、中でも分厚くて形の整った玉子は、玉子好きの私を最高に興奮させた。別れ際、彼女が「あなたに出会えてよかった」と言って泣き出した。出会ってからまだ5日しか経っていなかったが、私も同じ気持ちだった。あれから石垣島に戻り、出張や旅行で那覇空港へ行く度に、『風月寿司』に寄って思い出と共に舌鼓を打っている。昨年、石垣島から沖縄本島へ引っ越した。第二の人生のスタートに食したのは、やはり着いてすぐの『風月寿司』だった。これから先、きっと素敵な出会いが待っているとワクワクしながら食べた寿司は、相変わらず最高に美味しかった。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 台風の欠航は「沖縄の風物詩」とも言えそうですが、お客様にとっては悠長なことではございません。でも、そんな中での心温まるエピソードですね。泊めて下さったご友人、石垣島のご案内をされた投稿者様。拝読してすぐに「いちゃりばちょ~で~(会えば兄弟)」という沖縄の言葉が浮かびました。欠航で混乱する那覇空港での出会いから別れまで、そして沖縄本島に転居された投稿者様にとって、弊社の寿司処が思い出の一部として存在していることを嬉しく有難く感じております。気になりますのは福岡の彼女との、その後です。偶然ではありますが弊社は福岡に本社を構えております。福岡にお戻りになった彼女が福岡の風月店舗をご存知でしたら嬉しい限りです。投稿者様と福岡の彼女の「再会の場」に、那覇か福岡の風月をお選び頂ければ有難く、とても素敵なことです。ご投稿有難うございました。

I.R様(福岡県) 天神駅で風月のあの懐かしいメニューを発見してとても懐かしくなりました、以前はビブレか天神コアどっちかにもありましたよね!博多駅にも。私は高校時代を思い出させてくれる懐かしいお料理です。高校時代には恵まれていたのかとても毎日ワイワイと楽しく過ごしていた記憶がありますが、その記憶の中の一つにこのお料理と味があるんです。高校の帰り道にお店がありまして、年頃もありとても食べることも大好きで人生で1番の激太り時代で、みんなで写真を見返しても笑えるくらいに顔がぱんぱんに、その原因となったのもこのお料理です!!高校時代、試験を頑張ったご褒美!バイトを頑張ったご褒美!と自分達のご褒美の場所でもあり、これぞ青春!って言う時間をたくさんお店で過ごしました、他愛もない話で盛り上がったり、悩み相談したり、高校時代の思い出に欠かせない店でした。えらく時間が経過し年齢を重ねましたが、忘れられない味があるなんてすごいなと今更に思います。あの頃の私と同じくらいの年齢になった息子を連れて今日お店に行ってきました。私の思い出話と息子の今の高校生活の話に盛り上がりながら美味しく頂きました。今度は、あの頃のメンバーで同窓会としてお店に伺えたら素敵だなと思ってます。変わらず美味しいお料理をありがとうございます。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 過去・現在・未来に渡っての内容は、私たちの企業にとってお客様と共に歩んでいるということを再確認することができ、大変有難く感じさせて頂きました。また、今後も私たちのサービスが皆様の生活の一部であり続けられるように頑張らなければと奮起させて頂いた次第です。この度は、ご応募誠にありがとうございました。

M.C様(大阪府)よく祖母と天神で待ち合わせをして買い物をしていました。あちこちうろついて疲れた帰り道、西鉄電車に乗る前に必ず風月へ寄っていました。そして祖母は毎回クリームソーダを頼んでいました。私は自分の食べていたものを何一つ思い出せません。思い出すのは、少し前屈みになりながら嬉しそうにクリームソーダを口に運んでいた祖母の笑顔です。 あなたと風月の絆委員会よりコメント ご祖母様との思い出、ありがとうございます。お買い物の帰りに立ち寄って頂いたのは西鉄名店街のレストラン風月かもしれませんね。ご祖母様がクリームソーダを召し上がっている姿が目に浮かびます。ご祖母様の素敵な笑顔をこれからも時々思い出してくださいね。

I.T様(福岡県)風月の100円シュークリーム私は去年還暦を迎え、母は90才になりました。今でもジムに通うほど元気にしております。母は、専業主婦が多かった昭和40年代は栄養士として今でいうキャリアウーマンとして、バリバリ頑張っていました。共働き家庭で育った私と弟は、父母の残業や飲み会が重なると、夜二人で遅くなって帰ってくる母を待つことがありました。でも、そんな時でも心待ちにしていたお土産が!西鉄大牟田線で通勤していた母の特別なお土産は、風月の100円シュークリーム。その当時、え?シュークリームが、一個100円もすると!?と弟と驚いたものでしたが、もっと驚いたのはその大きさでした。小学生だった私の広げた手のひらくらいの大きさで(個人的な印象かも。でもそのくらいな感じ)でぐー握りしたくらいの厚みのシュー皮の中に甘くて香ばしいクリームがたっぷりでした。夜、弟と母を待ちつつシュークリームを待つワクワク感で何故か寂しくはありませんでした。母が、帰ってきた安心感と口いっぱいに広がったシュークリームの甘さで、心が満たされたのを覚えています。今でも、あの時のシュークリームは大きかったね〜だの、お留守番頑張ってたよねだの、90才と60才の会話がはずみます。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 幼いお子様の留守番を心配しながらお仕事を頑張っておられたお母様の当時の様子を想像すると胸が熱くなる心温まるエピソードでした。弊社のスタッフにも当時のジャンボシューを知るものはだいぶ少なくなりましたがI.T様の鮮明な記憶の中にあるシュークリームの思い出はとても貴重なお客様のお声です。お客様の懐かしい思い出の中に生き続けられる美味しいお菓子を作れる喜びを再認識できました。本当にありがとうございます。ご投稿有難うございました。

N.A様(福岡県)僕の母はあまり甘いものを好んで食べる人ではありません。それでも、帰省するときは僕は決まってガトー風月のモンブランタルト、煉瓦造りの石畳、いちごのショートケーキを買って帰ります。風月のケーキを食べながら、幸せな顔になってほしいからです。「帰ったよー、そしてケーキも買ってきた!」僕がそう言うと、母は「私はいいからみんなで食べて。」と言います。だから僕は一人一つずつ買った上でこう言うのです。「お母さん、かぶったら食べれません選手権しよう!」 「何それ?おもしろそうね。」それは、お互いに食べたいケーキを指差して、他の人と重ならなかったら食べていいというルールで、母はそういったゲーム形式にするといつも参加してくれます。そういった母の優しさがいつも嬉しく思います。自然な形で妹も参加して三人で行います。「じゃあやるよー。せーの!」母はモンブランタルトを指差し、僕と妹は煉瓦造りの石畳を指差します。「やった!じゃあ私はモンブランいただくねー。うん、美味しい!いいの?モンブランこんなに美味しいのに。」僕たちは悔しがります。食べたかったーとか、次こそかぶらないで食べるぞー!と口々に言います。でも、僕らは言わずとも分かっているのです。母がモンブランが好きなこと。そして、モンブランを思う存分味わってほしいこと。だから、モンブランではないケーキを指差すようにしていること。そのあと二回戦を行い、再び二人とも煉瓦造りの石畳を選ぶという小ボケをはさんで、三人でそれぞれのケーキを食べます。妹は煉瓦造りの石畳、そして僕はいちごのショートケーキ。どれも甘くて上品で美味しいです。そして、僕がガトー風月のケーキを食べるとき、決まって周りには優しい温かい笑顔に包まれています。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 優しさ溢れる思い出、ありがとうございます。「かぶったら食べれません選手権」いいアイデアですね。お母様を思いやるお子様方の三人が笑いながら素敵な笑顔でケーキを食べている姿を想像すると楽しい気分になります。これからも一家団欒のアイテムとして風月のケーキを利用して頂けるように美味しいケーキ作りに励みたいと思います。

U.S様(福岡県)私が幼い頃、祖父や母が時々連れていってくれていました。もう30年くらい前でしょうか(笑)ビーフバター?のパスタがとにかく美味しくて行くと毎回そればかり注文してたほどです。鉄板にかけるソースの音が豪華に感じて、あのちょっと焦げたパスタがカリッとしてるのも好きで、お肉たっぷりで濃いめの味付けも子供の私にとってはなんだか贅沢でした。初めて食べた時の美味しさは今でも覚えてます!母と美味しいねって、もくもくと食べました。祖母と行ったときは私がまだ小学生なのに祖母の分まで分けてもらって食べてたくらい好きで、家族全員がとりこになってました。母子家庭の私たちにとっては外食なんて贅沢すぎましたが、ふだん子供に多めのおかずを出して自分は控えめな食事をする母も美味しそうに食べてて、それが子供ながらに嬉しかったです。風月のパスタは特別で、祖父も母ももう亡くなりましたが、私が結婚して子供ができたら家族と絶対行くと決めています!なのでこれからもずっと営業をしててくれないと困ります(笑)今は飲食店始め大変な状況が続いてますが応援しています!がんばってくださいね。大袈裟ではなく本当に私にとって風月さんは特別な思い出のあるお店なので、今回の応募記事を見たときは思いを伝えるチャンスだ!!と、こうやって応募させて頂いています。書きながら久々に食べたくなってきました~! あなたと風月の絆委員会よりコメント 30年前のエピソードを詳しく記載して頂き、心より感謝申し上げます。皆様の大事な思い出の1ページに、私たちの提供している食やサービスが繋がっていると思うと、本当に素敵な職業をさせて頂いていると嬉しく思います。また、このような状況の中で温かい言葉をかけて頂き、この苦境を絶対に乗り越えなければならないと再認識致しました。今はテイクアウトやデリバリーでしか対応できないシチュエーションが多々ありますが、店舗では感染予防対策も引き続きしっかり行って参りますので、また是非ご利用頂けましたら幸いに存じます。この度は、ご応募誠にありがとうございました。

M.N様(福岡県)私の風月さんとの思い出は雪うさぎにまつわるかわいい思い出です。私が通っていた小学校の給食にはたまに雪うさぎが登場していました。甘くやわらかくかわいい雪うさぎは子供たちに大人気のおやつで女子は手の平にのせて眺めて「かわいかねー」「食べるとかわいそかね」と言いつつ完食していました。男子たちはCMソングを大声で歌い中には替え歌を披露し、先生を笑わせる子もいました。だいぶ遠い昔の思い出ですが楽しかった給食の時間…思い出の1ページです。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 「食べるとかわいそかね」と言いながら「ぱくっ」と食べるシーンを想像し、なんだかほっこりしちゃいました。給食の時間の思い出ってなかなか忘れないですよね。思い出の1ページに雪うさぎが役立てたこと感謝の言葉しかありません。男子のCMソングの替え歌の歌詞が気になります。また機会がございましたら教えてください。ご応募ありがとうございました。

E.K様(福岡県)中学から大学を卒業するまで親友だった友人は、大学時代フォークグループ赤い鳥のコピーのようなバンドを作って演奏活動をしていました。私もハイ・ファイ・セットは好きで当時よく曲を聞いていました。雪うさぎのCMを歌っていた方が、山本潤子さんとは全く気付かず、後に少し驚いた記憶があります。そんな彼らも大学卒業前に解散コンサートを開き、私も招待を受け出向きました。最後の曲は赤い鳥の歌ではなく、オリジナル曲を精一杯歌って皆から大きな拍手を受けていました。彼らは泣いていました。もう40年以上も前の話です。今、当時の親友とは中学時代の同級生のときに出会う程度の仲となってしまいました。雪うさぎのCMが流れるとあのやさしい、あたたかな歌声と共に懐かしさというよりもいろんなことが交差して不思議な気持ちになることが今でもあります。 あなたと風月の絆委員会よりコメント 2010年にテレビ番組で「雪うさぎ」CMの作者と歌手を探す企画がございまして、当時広告代理店などを調べましたが判らずじまいのところ、局の方が調べてくださり、作曲は大野雄二さん、歌手は当時まだ無名ながら500曲超のCMの歌唱をされていた山本潤子さんと判り、社内でもまさか「ルパン三世」と「フィーリング」(ハイ・ファイ・セット)との関わりがあったと大騒ぎした良き思い出です。懐かしい思い出をありがとうございました。